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三菱重工を辞め、「カオスでリストラ局面」だった妻の実家の会社へ クラフトビールで農業を切り開く若手社長

「農家と生活者が、協同で日本の農業を切り開こう」という思いを社名に込め、1975年に創業した協同商事。農産物の運搬や販売からビール事業に参入し、オリジナルブランドのクラフトビール「COEDO」は、現在は世界28カ国で販売されるまでになった。2009年、36歳で先代社長からバトンを受け継いだ朝霧重治氏に、事業承継の経緯について聞いた。

三菱重工を辞め、挑んだのは…

——協同商事の歴史を教えていただけますか?

朝霧 創業は1975年、法人化は1982年にしており、今年で49年目を迎えます。「農家と生活者が協同で日本の農業を切り開こう」という意味で協同商事という社名にしました。

創業後しばらくは、農家の産直活動を手伝う物流サービスがメインで、運送会社のように見られていたかもしれません。

1990年代、野菜の販売事業も始め、1996年には現在のメイン事業となっているビール事業をスタートしました。

——朝霧社長が協同商事に入社した経緯を教えてください。

朝霧  協同商事は、もともと私の幼馴染だった妻の父が経営していた会社で、小さい頃から知っていました。

人が足りない時には皿洗いや倉庫作業を手伝うこともありました。物流センターで人手が足りないと言われたときは、学校でアルバイトの人集めをしたこともあります。

それでも、当時は、自分がこの会社で働くことになるとは、全く思っていませんでした。

先代の社長から会社の成り立ちや創業の想いなどを聞いた上で「一緒にやろうよ」と誘ってもらい、日本の農業を切り拓く「アグリベンチャー」的な活動で面白そうだなと思い、新卒で入社した三菱重工を2年目で辞め、1998年に協同商事に入社しました。

高校や大学時代は経済小説家の城山三郎の本を読み漁り、もともと起業や経営に興味がありました。だから、経営に携われるのであれば早いうちから、かつ大企業ではなくてベンチャー企業にジョインするのが良いだろうという思いで入社しました。でも、1番の決め手は「愛する妻の家族の力になりたい」だったかもしれません(笑)。

三菱で学んだこととは

——三菱重工ではどういった業務に携わったのですか。

朝霧 学生時代はバックパッカーで、インドやタイ、マレーシア、中国など、世界中を旅しました。経済発展していないエリアはインフラが不十分だったりして、日本の技術でそういった国の未来を作りたいという思いで三菱重工に入社しました。

三菱重工では、プロジェクトの考え方を学びました。従業員が何万人もいる大企業でも、全員で1つの仕事をするわけではありません。プロジェクトごとに営業や技術者などのスペシャリストがおり、社内外含めいろいろな立場で協力して仕事を進めるという仕組みを学べたのは大きかったと思います。

プロジェクトメンバーの中には、高校を卒業して10代からものづくりの第一線で活躍している人もいれば、大学院で博士号を取って研究一筋で頑張っている人もいて、本当に多様でした。

「リストラ局面」だった協同商事

——協同商事に入社した当初、社内の雰囲気はどんな感じでしたか?

朝霧 「カオス」の一言ですね。三菱重工と異なり、組織そのものや指揮系統、評価制度が整備されていないことに驚きました。

さらに、運送業は参入障壁が自由化され、競合が次々に入ってきて雲行きが怪しくなり、当時新しく協同商事が始めた地ビール市場はすでに右肩下がりになっていました。課題が山積みで、ずっとリストラ局面にいる感じでした。

企画部長を経て、2003年に副社長になってからは、代表権も持って一気に責任が重くなりました。改めて事業を見直したり、会計の仕組みを変えたりしました。その後、2009年に社長に就任いたしました。

——なぜ、ビール事業に注力していく判断をしたのでしょうか。

朝霧 もともと協同商事は運送業がメインでしたが、「農作物を運ぶこと」を目的としていたわけではなく、あくまでも「農家をサポートする」ことが目的でした。そんな中、いろいろな企業が運送業に参入し、我々が必ずしも運送業をやらなければいけない理由がなくなってきたのです。

わざわざレッドオーシャンの中で苦しみながら事業を続けることよりも、何か他のアプローチで農家さんをサポートできたらという想いで、徐々に事業の配分を変えていきました。

妻の父との軋轢はなかったのか

——経営を担う中で大切にしていることはありますか?

朝霧 とにかく、第三者目線でいることです。自分が自分の会社のコンサルタントになったつもりで、客観的に判断するようにしていました。これは「よそ者」である自分だからこそできたのかもしれません。

自分のエゴで事業や組織を動かすのではなく、客観的に見て判断していたからこそ、副社長時代も、先代社長との軋轢もほとんどありませんでした。ある程度任せてもらったのは、すごくありがたかったですね。

それから、会社のバリューにもしている「三方良し」と「知・好・楽」という考え方は大切にしています。

後者は論語からの引用で「それを知るものはそれを好むものに如かず、それを好むものはそれを楽しむものに如かず」という意味ですが、やっぱり楽しいな、いいな、と思う分野のことはみんなすごく力を発揮するじゃないですか。放っておいても学ぶし活動する。

その上で、勝手なことを1人でやるのではなく、三方良しできちんと回るようにすれば、十分なんです。

「社長になる」がゴールではない

――若い頃から経営に近いところでご活躍されている朝霧社長ですが、規模の小さい会社にジョインしたことはプラスに働きましたか?

朝霧 後継者という立場をどう考えるかだと思うのですが、自分で起業しようとしていたら、「社長になること」がゴールになっていたかもしれません。でも、実際に大切なのは、社長になった後にどんなことをするのか、事業をどう続けていくのかです。

そういう面では、若いうちから規模の小さい協同商事という会社に参画し、会社が設立された目的を理解しながら働けたのはすごく意味のあることだったと思います。

――ご自身が「事業承継する側」になることについての考えを聞かせてください。

朝霧 時代によって、会社のアウトプットは変わるかもしれませんが、根本的なところは変わらないと思います。だから、ビール事業を必ずしもずっと続けていく必要はなく、その時々の課題に応じたことをやっていけば良いと思います。

一方で、「農業で新しい日本を切り開く」という企業理念は大事にして、その枠の中で、生活が楽しくなるような事業をどんどんやっていけばよいと思います。

企業のバックグラウンドを大切にして、時代や生活者のニーズに合わせてどう新しいことにトライするかというのが、長く続く企業の承継ではないでしょうか。

朝霧重治さんプロフィール

株式会社協同商事代表取締役社長 朝霧重治。1973年6月、埼玉県川越市生まれ。一橋大学商学部卒。1997年三菱重工業株式会社入社、翌年の1998年10月、株式会社協同商事入社。ビール事業を中心に企画に携わり、2003年に同社副社長、2009年に代表取締役社長に就任。「Beer Beautiful」をコンセプトに、クラフトビール「COEDO」のビール事業を再生した立役者。現在では、世界28カ国に届けている。

取材・文/川島愛里

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賢者の選択サクセッション編集部

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