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ホテル業界を牽引し続ける、アパグループ二代目CEO誕生秘話。幼少期から入社に至るまでに受けてきた、想像を絶する帝王学とは⁉ /元谷一志インタビュー♯1

日本最大規模のホテルチェーン、アパグループ。石川県小松市のたった2棟のアパート経営から始まり、今や全国に728ホテル・112,216室(2023年6月時点。建築・設計中、海外、FC、アパ直参画ホテルを含む)を展開する「総合都市開発の雄」だ。創業から50年にわたり成長を牽引し続けてきた元谷外志雄氏は、2022年4月、CEOの座を長子の元谷一志氏へと託した。新CEOが描く「次の50年」とは――。飽くなきイノベーションの源泉に迫る。

――社長兼CEOに就任されてから1年と2カ月が経ちました(2023年6月取材時点)。前CEOである元谷外志雄現会長は、1971年の創業から51年間、連続黒字を達成されています。その継ぎ手となるのは並々ならぬプレッシャーだったのではないでしょうか。

元谷 特にこの2年間は、コロナ禍で非常に苦しい時期でした。幸いだったのは、2022年3月にまん延防止等重点措置が解除され、10月から訪日外国人観光客の入国が解禁となったことです。ホテルの稼働率が急速に回復し、2022年11月期のグループ連結売上高は1,382億円、経常利益も353億円と前期対比増収増益となりました。今期も現状のペースでいけば、過去最高を達成できる見込みです。

カリスマ創業者からの事業承継とその重圧


――「連続黒字」の記録を、見事に更新されているわけですね。

元谷 厳しい状況ながら、乗り切れたことに安堵しています。とはいえ新体制がスタートしてまだ1年ですので、CEOとしての評価は今後の5年、10年にかかってくると思っています。ただ、私の代では「成果を求めない」と、決めました。事業承継はいわばバトンリレーですから、業績の半分は先代に、もう半分は3代目に受け渡そうと。

 そもそもアパグループのルーツは祖父にありまして、船の舵輪を製造する元谷木工製作所を起業したのですが、闘病の末、父が中学2年生の時に祖父が亡くなってしまいました。そして生計を立てるため資産を1点ずつ売り払っていき、最後に残ったのが石川の小松にあるアパート2棟。これが弊社の創業のタネ銭となったわけです。祖父は道半ばで病に伏したので、相当無念だったと思います。そして生きていれば70歳になる誕生日に、私が産まれたのです。

――運命的なリンクですね。

元谷 というより宿命だなと。”志”を継いでほしいという祖父の願いなのか、父の名が外志雄で、私は一志。実はうちの長男にも”志”の字を入れています。侍心と申しますか、元谷木工製作所から父が起業した信開グループになり、アパグループへと至る変遷の中で、祖父の想いとDNAが脈々と受け継がれている。私がこの世に生を受けたのは「父をサポートしてくれ」という祖父からのメッセージなのではと宿命づけました。

幼少期から経営哲学を体得


――元谷家の承継者として、お父様からはどのような教育を受けましたか。

元谷 まず「勉強馬鹿」になるなと言われました。「テストの点取り屋は、答えがあるものをいかに覚えるかや。でも、世の中は答えのあるものなんかない」と。それよりも幼少期から世界を見ろ、そうして情報の感度を高めて想像力を養えと教えられました。

 小学生の頃は夜9時に寝ていたのですが、夜11時に叩き起こされまして、帰宅した父に「挨拶をしなさい」と言われるわけです。父からすると、多忙で真夜中にしか帰ってこられませんので、親子間でコミュニケーションを取るにはその時間しかなかったのでしょう。それで肩もみをしていると「今日、お前には何が起こったんだ。俺は金沢に土地を買ったから、今から見に行くぞ」と言われて、てっぺんを回るような時間帯にいきなり車でガーッと連れて行かれまして。

――当時は、小松にお住まいですよね

元谷 ええ、金沢までの約30㎞を飛ばして行くわけです。そこで「この土地で何をするかわかるか」と言われてですね。小学生ですから、当然どういった建物が建つかイメージできない。ところが父は、「隣のビルが8階建てやったから、ここも同じ階数で建つんじゃ」とか、「あそこはどうして斜めにカットされとるかわかるか。北側斜線じゃ」とかですね、いわゆる宅建業法のイロハを幼少期ながらに叩き込まれました。徒弟制度に近いと言いますか、そういった教育ができた最後の世代ではと思いますね。社会経験として業務を覚えることができた点では、非常に恵まれていました。

大学時代に都心でビジネス感度を高める

――学習院大学に進まれたのも「帝王学」としての意図があったのでしょうか。

元谷 父からは「大学の難易度は問わないから、都会のど真ん中に行け。厚木に2年間行くような大学には進学するな」と言われました。要は、都心で暮らすことで情報の感度を磨けと。結果として私は目白キャンパスに4年間通いまして、バブルの崩壊を間近に見ました。タイムラグをビジネスチャンスと捉えることも大きな学びでしたね。東京で流行ったものが大阪へ、そして名古屋、福岡、金沢へと地方に遅れて伝播していく。例えば、スターバックスの1号店は、東京でも鳥取でも行列ができる。何故かというと、西洋ブランドの敬慕と新しい企業へのリスペクトという日本人の特性ゆえなんですね。

 弊社が海外戦略の1号店をアメリカにしたのも、トヨタのレクサス戦略と同じで、西洋ブランドを手に入れて磨いていかなくてはという考えに基づいています。北米でブランドをしっかり築いてから日本に逆輸入することで、高単価で販売できますから。

――まさに都心でビジネスの感度を高められたわけですね。卒業後は住友銀行に5年間勤務されていますが、事業承継を見据えての選択だったのですか?

元谷 就活を控えた大学4年生の時、父に「家業に戻ってくるのか。もしその気がないなら、『財産はすべて放棄します』と一筆書いてから、どこへでも好きなところへ行け。もし継ぐのであれば、金融のメカニズムを学ぶために銀行に勤めるといい」と言われました。いわば踏み絵をさせたわけで、私も改めて自分の人生を考えさせられました。祖父と同じ誕生日に生まれたことや、幼少期の理不尽とも思える徒弟制度を振り返って、「企業を継ぐ」か「企業家になる」か、2つに1つだと。そして最初は雪の玉(タネ銭)が大きい方がより巨大な雪だるまができるなと・・・それなら雪玉作りからするのも悪くないと思い、家業に戻る選択をしました。

「大企業の論理」に縛られないOJTとは


――住友銀行ではどのような経験を得られましたか。

元谷 「大企業の論理」を非常に強く感じましたね。特にOJTはマニュアルに縛られていて、先輩に質問しようにも「ルールブックを参照してから聞いて」というスタンスでした。効率的な面もあると思いますが、あまりにも縛りがきついと窒息してしまう。一人一人が受け持つパートもかなり限定的になりますから、個性や創造性も生まれにくい。均一化においては効果を発揮する一方、そこから先の一粒が成長する過程においては損なわれる部分が多いように感じました。

――1999年にアパホテル株式会社に常務取締役として入社されますが、「大企業の論理」から学んだ経験をどのように活かされたのでしょうか。

元谷 当時の弊社はホテル数が18で、部屋数が全3,487室でした。正直に申し上げれば、「人生詰んだな」と思ったレベルです。そんな中小企業では、当然「大企業の論理」は通用しません。OJTにおいては、手作り感のあるマニュアルで柔軟な対応を目指しました。やはりある程度は領域を広げた方が人は成長する。優秀な人材が揃う大企業とは違いますから、不揃いな人材が最初は集まっても、長所を伸ばして短所は目をつぶらないと人は成長しないなと。規格外野菜をどう仕入れて、どう料理するかと同じですね。

(まとめ)

幼少期から様々な帝王学を受けてきた元谷氏。次回は、二代目CEOに就任してからのビジョンや三代目へ向けての事業承継について語っていただく。

後編|「アパグループの事業承継」はこちら

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アパグループ 社長兼最高経営責任者(CEO) 元谷 一志

1971年4月20日福井県生まれ。石川県出身。1990年石川県立金沢二水高等学校卒業。1995年学習院大学経済学部経営学科卒業。住友銀行にて5年間勤務した後、1999年11月アパホテル株式会社常務取締役として入社。2004年に専務取締役に就任した後、2012年5月にアパグループ株式会社代表取締役社長に就任し、グループ専務取締役最高財務責任者、グローバル事業本部長を歴任。2022年4月アパグループ社長兼最高経営責任者(CEO)に就任し、現在に至る。

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